莫大なコストと時間を要することから、参入ハードルが高く、かつ成功率が低いバイオテクノロジー研究事業。しかし、近年の技術向上や大企業のバイオベンチャー買収、長引くパンデミックの影響もあり、世界的にバイオテックに熱視線が注がれている。

2001年、山形県鶴岡市に誕生した慶應義塾大学先端生命科学研究所(以下、 Institute for Advanced Biosciencesの略で<IAB>と表記)では、世界的なバイオ研究拠点となるべく日夜研究が行われている。その成果として、石油に頼らない人工合成タンパク質素材を開発して期待されるSpiber株式会社をはじめ、IABからいくつかのバイオベンチャーが誕生。

IABの所長であり、バイオテクノロジー分野の第一人者といわれる冨田勝(とみた まさる)教授への取材をもとに、注目のバイオベンチャー企業3社を紹介したい。

だ液で5つのがんリスクを算出する「サリバテック」

ストローで少量のだ液を採取して、がんリスクを検査するサリバチェッカー(写真提供:サリバテック)

IABで博士号を取得した杉本昌弘(すぎもと まさひろ)さんが分析技術を開発し、医師の砂村眞琴(すなむら まこと)さんとともに、2013年に創業した株式会社サリバテック。提供するのは、「だ液」を使った国内初のがん検査「サリバチェッカー」だ。

少量のだ液の成分を分析することにより、膵臓がん、肺がん、大腸がん、乳がん、口腔がんの5つのがんリスクを、がん種ごとにA〜Dの4段階で表示する。A、Bはリスクが低いが、C以降が表示された場合は、病院で本格的な診断を受けることが推奨される。

「特に膵臓がんは自覚症状が出にくく、進行が早いがんです。発見時にはステージ4という患者も少なくありません。とにかく早期発見がカギなのですが、年に1〜2回の頻度で数種類のがん検診を受けるのは労力を伴います。このだ液検査なら身体への負担や痛みがなく、1年に2度でも現実的な選択肢になるでしょう」(冨田教授)

自宅でできるサリバチェッカーの検査キット内容(写真提供:サリバテック)

自宅での検査も可能で、現状は29,700円(税込)で検査キットが販売されている。全国1,200箇所の医療機関(2021年3月現在)でも同様の検査を受けることが可能で、料金は各医療機関により異なるが基本的に2〜4万円となる。

そもそも、なぜ「だ液」に注目したかというと、がん患者と健常者を比較した場合に、血液や尿よりも、だ液のデータにもっとも有意差があることが判明したからだ。だ液中には数百種類の成分があるが、がんを患うと、そのうち20種類の成分(マーカー)が増減する現象が起きるという。マーカーとなるそれらの成分を健常者のサンプルデータと比較することによって、がんリスクが発見できるのだ。

「これはメタボローム解析といって、弊研究所が発見した最先端技術です。一度の解析で数百種類の物質の量を把握できます。ひとつの物質だけで特定のがんリスクを判定するのは困難ですが、AIにより20種類のマーカーを同時比較することによって精度の高い検出を実現しました」(冨田教授)

2020年4月〜2021年2月までに、8,000以上の検査を実施。大腸がんのC判定が出たことで早期発見につながり、病気を克服できた人もいるそうだ。該当者は、病院での検査を嫌い避けていた患者だった。サリバチェッカーは非常に受けやすい検査だが、一方でネックは保険適用にならず、やや高価格帯であることだという。

「現状は解析がオートメーション化されていないために、1日の分析数が限られています。いずれ保険適用になったり、上場して資金調達ができたりすれば、スケールメリットで価格が下がるでしょう。もう少し時間がかかりますが、非常にポテンシャルが高い事業であり、将来的にはグローバル展開も狙えるはず。この先がとても楽しみな企業です」(冨田教授)

AI×バイオ×ロボットで創薬プロセスを劇的に短縮「モルキュア」

製薬会社が新薬を開発するには、通常10〜18年の歳月と200億円以上の開発費がかかるといわれる。にもかかわらず、成功率はわずか25,000分の1であり、新薬開発はメガファーマーに頼るしかないのが現状だ。

「近年の薬は、8割ほどがバイオ医薬品です。複雑で大きな構造を持つ分子をもとに、途方もない組み合わせの実験プロセスを経て、ようやくひとつの薬が生まれます。日本の製薬会社のほとんどは、経済的な課題から創薬に着手できていないのが現状です」(冨田教授)

鶴岡バイオラボでのモルキュアの研究の様子(写真提供:モルキュア)

この課題を打破すべく、2013年に創業した株式会社MOLCURE(モルキュア)は、AIによる解析、バイオテクノロジー、ロボットによる自動化を組み合わせ、バイオ医薬品の開発スピードを従来の数十倍〜数百倍にまで向上させる独自技術を開発した。

「モルキュアでは、最先端のスクリーニング手法である進化分子工学的実験にAIとロボット技術を組み合わせた独自技術により、従来の1/2の時間で10倍以上の数の医薬品候補を探索できます。人間のスキルでは発見できなかった新薬を開発できる期待も高まります」(冨田教授)

現状は、クライアントとなる製薬会社から初期費用と成功報酬、ロイヤリティを受け取るビジネスモデルを採用している。モルキュアは、創薬標的、及び医薬品分子に求められる性能に応じてAIを用いた分子設計を行い、その分子の設計図を製薬会社に納品する。その初期費用と、設計した分子の性能に応じた成果報酬(マイルストン報酬やロイヤリティなど)を製薬企業から受け取るわけだ。

現在、開発中の次世代ロボットのプロトタイプ(写真提供:モルキュア)

現状、大手製薬企業5社と提携しているが、来年度には10社へ拡大したいと語る同社。将来的に、医薬品分子設計における世界のデファクトスタンダード(事実上の標準)を目指し、現在はAIの機能拡張、実験設備の増強、半自動化されている工程の完全自動化に向け、次世代ロボットのプロトタイプも開発中とのこと。

モルキュアの登場により、新型コロナをはじめ、いまだ有効な治療薬のない病気を克服する新薬が早々に誕生することも不可能ではなくなるかもしれない。

腸内デザインで病気ゼロを目指す「メタジェン」

腸内環境を整えると健康になる。これは比較的知られている話だが、近年の研究では、腸内環境が動脈硬化、糖尿病、精神疾患など幅広い病気の発症や健康維持に密接に関わっていることが明らかにされているという。

腸内細菌のイメージ(メタジェンのHPより)

私たちの腸には、1人あたりおよそ1,000種類、数にして40兆個もの腸内細菌がおり、腸内で個々に生命活動を行っている。個人の生活習慣や食事によって腸内細菌叢(※)の組成が変化し、それに応じて腸内で産生される代謝物質も異なる。

※腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう)……腸内細菌の集団を指し、お花畑のように見えることから腸内フローラとも呼ばれる。

IABで特任教授を務めている福田 真嗣(ふくだ しんじ)さんは、個々人の腸内細菌叢と代謝物質の種類や量を網羅的に解析する独自の腸内環境評価手法「メタボロゲノミクス®」を開発。2015年に株式会社メタジェンを創業した。

「余りにも複雑すぎてブラックボックス化していた腸内環境のデータが取得できるようになったのは、非常に大きな進歩だと思います。同社が狙うのは、病気の早期発見ではなく、その前段階の未病。健康な人をより健康にして、病気ゼロを実現するのがミッションです」(冨田教授)

多くの企業と共創プロジェクトを進行中(写真提供:メタジェン)

同社では、企業との共同研究により腸内環境のタイプに沿ったアプローチで健康維持や疾患予防を目指す「腸内デザイン共創プロジェクト」を発足。現在までに医療・ヘルスケア、食品業界を中心に約40社が参画しており、アサヒ飲料、ライオン、ロート製薬など有名企業がズラリと並ぶ。

今年1月には、神奈川県立保健福祉大学、神奈川県立産業技術総合研究所と共同で新型コロナウイルス感染症に関連する研究も開始。神奈川県民の協力を仰ぎ、コロナ抗体保有者の健康状態や腸内環境の特徴を独自手法で解析、ニューノーマル時代における新たな生活習慣の提唱を目指すという。

世界初となる便を常温保存できる腸内環境評価キット(写真提供:メタジェン)

「世界77億人の便を鶴岡の研究所に集めたい」と話すCEOの福田さんは、薬剤無しで便を常温保存できる世界初の腸内環境評価キット「MGキット」も開発した。

「あらゆる人種、生活環境、食生活における便を研究して、人類の未病に役立てたいと福田くんは意気込んでいます。将来的には個々の腸内環境を把握して、食事コンサルタントやサプリメントの開発をしたいそうです。いずれ、他人の便から採取した細菌がサプリメントになるかもしれません」(冨田教授)

利益追求ではなく「人類への貢献」がバイオテックの目的

3社が研究を行う鶴岡サイエンスパーク(写真提供:サリバテック)

近年、バイオベンチャー企業はあらゆる業界から注目され、大きな期待を背負っている。しかし、製品やサービスとなって世の中に発売され、十分な利益を生み出すまでには15年、20年の歳月を要することもめずらしくない。だからこそ、資金が尽きて撤退せざるを得ない企業も多いのだ。

「世の中にない技術を開発し、それをお金に変えるには、どうしても時間がかかります。一般的な投資家、特に利益第一主義の傾向が強いシリコンバレーの投資家は、絶対に10年以上は待たない。けれども、10年以内に結果を出せというのはバイオベンチャーにとっては酷なことです。

そもそもIABからバイオベンチャーを志す人たちは、すぐに利益が出ない事業であることを受け入れ、覚悟を持って起業しています。彼らの目的はお金を増やすことではなく、独自技術を社会実装して人類のために貢献すること。そのために、経済的な苦しさや日の目を浴びない悔しさを幾度も乗り越えて、研究開発を続けています。

投資家の方々には、バイオベンチャーの現時点の利益ではなく、『ポテンシャル』と『志』を第一に評価してほしい。また、みなさんには、ご紹介した3社のようなバイオベンチャーが成功した暁には、『よくやった!』と讃えてあげてほしいと願うと同時に、万が一失敗に終わるようなことになっても、『ナイストライだった!』と拍手喝采してあげてほしい。

成功したバイオベンチャーの起業家が、子どもや若者の憧れの存在になるような日がくれば、日本は大きく変わっていくと私は信じています」(冨田教授)

慶應義塾大学先端生命科学研究所で創設時から所長を務める冨田 勝教授(写真提供:IAB)

筆者は先日、同じくIABから生まれたベンチャー企業「Spiber株式会社」に取材する機会に恵まれた。石油に頼らない植物由来の人工合成タンパク質素材を開発した世界有数の企業として、今でこそ世界中から注目を浴びているが、約15年間の研究開発期間は決して順風満帆ではなかったそうだ。

生半可な意思では絶対にたどりつかなかった未来であり、その情熱に圧倒された。紹介した3社もまた同様に、研究に精魂を傾ける日々を送っているに違いない。5年後、10年後、彼らの活躍により変化する未来に期待したい。

サムネイル写真提供:モルキュア

<取材協力>
慶應義塾大学先端生命科学研究所 所長 冨田 勝
http://www.iab.keio.ac.jp/index.html

株式会社サリバテック
https://salivatech.co.jp/

株式会社メタジェン
https://metagen.co.jp/

株式会社MOLCURE
https://molcure.com/

<取材・文>
小林 香織

<編集>
岡 徳之(Livit